テキストの練習


ここがH1

「原理主義」というと、「イスラム原理主義」「キリスト教原理主義」といった、ニュースでしかお目にかからないような主義・思考と思いがちですが、実は、人間誰でもが陥りがちな思考であることを教えてもらったのが、今回の講師、釈徹宗さんの「なりきる すてる ととのえる」という維摩経を解説した本でした。そこにはこんな例が紹介されています。ちょっと引用させていただきます。

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「あなたが毎日曜日に『街をきれいにしよう』と、ゴミ拾いのボランティアを始めたとしましょう。代償を求めて始めたわけでも、誰に褒められようとして始めたわけでもない。純粋に”自分が気持ちいいから”という思いから始めました。立派です。あなたは誰にも知られず、その活動を続けたとしましょう。(中略)でも、一歩間違えれば、あなたは無神経にゴミを捨てる人を許せない人間になってしまいます。そういう人を心から軽蔑し、ゴミを捨てている行為に対してはげしい怒りを感じるかもしれません。もしそうなれば、あなたは『街をきれいにする人』と『街を汚す人』との二項対立で組み立てられた人格になってしまうんですよ。ここがワナなんですね」
(釈徹宗「なりきる すてる ととのえる」より)

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ほら、こう考えると、思いあたるでしょ? これが組織レベルになると、もっとたちが悪い。毎日曜日に嬉々として集まっていたボランティア・ゴミ拾いグループ。ところが半年もすると少々惰性になり、欠席をする人も目立ってくる。そして、毎回出席しているメンバーがこんなことをいい始める。「なんだよ、あいつらサボってばかりで! 絶対に許せない。今度きたら糾弾してやる!」 もう、こうなってしまうと内ゲバです。

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最初は理想に燃えていた集団が、正義を純粋に追及してしまうあまり、世界を「敵か味方か」の二色だけに塗り分けて、敵を糾弾、殲滅しようとし始める。「原理主義」なんて自分たちには関係ないと思っていたら大間違い。SNSでのつぶやきをちょっとのぞいてみるだけでも、すべてを「愛国者か反日か」「右翼か左翼か」等の二色に塗り分けないと気がすまないといった発言のいかに多いことか。それだけではありません。趣味のサークルだって、ママ友の間だって、サラリーマン組織の中だって、程度の差はあってもこうした二項対立のワナにはまってしまっている例は、ちょっと見回すだけで、枚挙にいとまがありません。人間は、ほおっておくと、どうしても、こうした偏りをもってしまう性向があるようです。

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こうした二項対立のワナ、原理主義のワナに陥られないためには、どうしたらいいのか? そのヒントが「維摩経」にはちりばめられている・・・といった直観が、今回、この名著を取り上げるきっかけとなりました。そして、釈さんは、現代社会に「維摩経」を活かす読み解きを見事に果たしてくださいました。

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「いったん構築されたものを解体し、また再構築するという手順を繰り返す」。「維摩経」が説く、原理主義に陥らない方法を一言でいうとこうなるでしょうか? そうはいってもなかなか難しいですよね。釈さんは、「空の実践」「縁起の実践」というキーワードで、私たちが、この成熟社会にあって、どう生きていったらよいかというヒントをいろいろ教えてくれました。番組でも少しだけ触れましたが、取材の際にうかがったお話も合わせて少し敷衍してみましょう。

(整形済み)
現代社会では、「他者に迷惑をかけない限り何をやってもかまわない」という倫理を構築してきました。こうした自己決定社会では、人々は老いてくると、どうしても孤立しがちです。だからこそ、意識的にコミュニティへ首を突っ込んで暮らしていくよう心がける。これを釈さんは「縁起の実践」と呼びます。「あらゆる存在や現象は、関係性で成り立っている」という縁起の思想を、「関わる態度」として拡大解釈して、関係性のニューロンを常に延ばしていくことを釈さんは勧めるのです。

しかし、一度関わったコミュニティにしがみつくのもよくない。そうなると、人はたやすく原理主義のワナにはまってしまう。ここで、一度結んだ関係性をたやすく手放せる「こだわりのなさ」が大事になってきます。縁があればつながり、縁がなければ離れる。これが「空の実践」です。この両輪を回してくことが、高齢化社会、成熟社会にあって、「こだわりや執着を手放した真に自由な生き方」「自分の都合に左右されない他者や社会との関わり方」を実践する上で重要だなあということを、釈さんの解説を聞きながら、しみじみ思いました。

(引用)
こうした理想的なあり方を、釈さんは、「お世話され上手」と呼びます。「お世話上手」はよく聞くけど、「お世話され上手」とはこれ、いかに? 逆説的なのですが、釈さんによれば、本当に自由で自立している状態というのは、「多様に依存している状態のこと」なのだそうです。生まれながらに四肢が不自由な知人の方が、かつてこんなことをおっしゃったそうです。「自分は生まれながらに四肢が不自由なので、他者に迷惑をかけねば生きていけない。だから、いかに上手に迷惑をかけるかが生きるすべなのだ」と。これは、程度の差はあれ、すべての人にいえることではないでしょうか? どんな人だって、弱いところや人に頼らざるを得ない部分ってもちあわせているわけですから。

しかし、現代人は迷惑をかけるのも、かけられるのも苦手になってしまっています。かつては濃密な地域共同体が曲がりなりにも機能していて、こうした互助関係は日常茶飯事。迷惑をかけたりかけられたりする心身が鍛えられていました。でも現代社会は、こうしたしがらみから逃れたい・・・というベクトルで動いてきました。特に、都市に住む人たちはそうですね。とはいえ、老いや病によって、わが身を他者にゆだねなければならない日が必ずやってきます。では、どうすればよいのか?

釈さんが勧めるのは「コミュニティへの重所属」。単一のコミュニティへの所属だけだと、どうしてもそこにしがみついてしまったり、関係性が息苦しくなってしまいます。そこで、いろいろなところに顔を出す暮らしを心がけるのです。どこから外れても孤独にならない、縁があれば関わり、縁がなければ離れるという緩やかなつながりを保つ。そうしていくことで、都市にいながらにして、誰かにたよったり、たよられたりする心身を育て、「お世話され上手」を目指していく。実際に、釈さんは、「練心庵」という寺子屋を運営しながら、都市の中での「コミュニティの重所属」の場づくりに取り組んでいます。

でもね、結構こういうことって、男性たちの方が苦手なんですよね。介護施設でよく聞くのが、現役時代ばりばり活躍していた男の人に限って、体を他者に預けるのが下手くそで、かえって介助がやりにくいという話。「誰にも面倒みられたくないバリア」をはりがちなんですよね、そういう人って。なんだか自分もそうなりそうで心配です(笑)。「維摩経」をしっかり読み込んで、私も今から「お世話され上手」を目指していきたいと思います。

世を見回すと、正義を振りかざして他者を支配しようとしたり、ひとつの主義主張を何の疑いもなく信じ込んで少しでも異質な主張があれば徹底して排除する風潮がはびこったりと、どうもプチ原理主義のようなものがいたるところに根をはって息苦しい限りです。「維摩経」は、そうした人間の性向をきちんと照らし出し、そこから脱け出す手立てをきちん指し示してくれる、まさに今、読まれるべき名著だと、あらためて思いました。


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